32℃

ある種の地獄めいたSNSに日々のあれこれを書き散らす遊びを一年ほど続けていたのだけれど、再ログイン時に必要な情報を紛失してしまい戻れなくなってしまったのでとりあえず古巣に戻ってきた。雨崎として日記を書くのは随分ひさしぶり、というかまともに日記を書くこと自体ひさしぶりだ。ぬるい地獄に長期滞在していたおかげでどうにかアウトプットの習慣もついたし人間とのコミュニケイションも少しは上達した。いつまでこのへんをぶらついているかわからないけど暫くは雨崎の名で入/出力をしてみたいと思う。日々の泡をただ書き記すこと、いまの私はそれがしたい。ので、する。


感性が剥がれて生活だけが残った。習慣として読書だけは続けているけれどこれも最早惰性でしかないような気がしてくる。ここ数年は映画も音楽も四方山のことも何もかもがゆっくりと遠ざかってゆく感覚があり私はその変化をむなしく受け入れなくてはならなかった。二度と取り戻せないもののことを考えるのは非生産的だし精神衛生上よろしくないとは思うのだけれどつい考えてしまう。かつての自分があらゆるものに向けていた視線や熱は一体どこへいったのだろうと。

ひとはあまりに心を壊すと無気力になってしまうのだという。私はひとに指摘されてやっと自分の心が壊れているらしいことに気づいたが、いつから壊れていたのかわからない。母親曰く3歳頃までは天真爛漫な子供だったそうだからそれくらいにはもう小さなひびくらいは入っていたのかもしれない。

だいぶ前におすすめされて観たヴィレッジという映画のことをフと思い出す。後味の悪い結末だったという印象だけが残っていて話の筋もほとんど憶えていないのだけど、この作品を薦めてくれたのが自宅に呪いの手紙を送りつけてきた人だというのは今でも記憶している。彼女元気かな。というか監督シャラマンだったんだな。

折紙に戀文をしたためる

毛布を抱いて眠る姿はいつみても寂しげな幼子のようで、私はほんのすこし悲しくなる(かつて置き去りにした何かをそこに投影しているのかもしれない)。頭を撫でると薄く眼を開けて「おはよう」より先に私の名を口にする君、まるで主人の帰りを待つ犬のようで可愛いと思うけれどそれを可愛いと思う自分はきっと冷酷なのだろう。

可愛くて可哀想な私の片割れ。ただしさもあやまちも全部ふたつの身の内で撹拌されて最早原型を留めていない。シルヴァスタインの絵が脳裏をさまよう。可愛くて可哀想な私の片割れ。互いの影に抱き竦められて駆け出すことさえかなわない。

アルコールと流しこまれる欲でひたひたになった頭はそれでも理性を手放そうとはせず、ぼやけた視界の真ん中で動く身体に半分を受け渡そうと試みる。何をみているのかわからない眼で、迷子になったひとの顔で私のなかみを貪食する君の渇きはいつか満たされるだろうか。どこかの海の底に"それ"があるのかもしれないと思うと私の未熟な胸は軽薄に軋むけれど、今はまだ君は私の海で溺れながらも泳ぎ続けてくれている。有限の円環の内側で、私たちがいま、確かに存在しているということについて思う。

私はひとを口説いたこともなければ気の利いた文句のひとつも覚えがないような不調法者ではあるけれど、私を寝室に誘っていいのは君だけ。私のなかにはいっていいのも君だけ。そう言葉にする私の矜持を、どうか査収して頂戴。

「これはわたしのあやまちです」

アメリカの鱒釣りはこれぞアメリカの鱒釣りといった内容で最後にマヨネーズで締め括るあたりもたいへんアメリカの鱒釣りらしくアメリカの鱒釣りについて不勉強な私はブローティガン氏のアメリカの鱒釣り的な筆致に感心するほかなかったのだけれどもそれはそれとしてアメリカの鱒釣りというのは一体なんのことだったのか誰かご存知ない?

あめあめあめふれ。懐かしい曲。

暗がりの奥にあるものが何なのかほんとうはずっと前からわかっていた、そこにある箱の蓋が開きかかっていることも中身が少しずつ漏れ出していたことも。放棄した責任は期待に為り変わり透明な水は体液で濁ってゆく、そうした流れは堕落を示す足跡であり自欺を糾弾する無言の警告だった。そう、ほんとうはわかっていたんだよ。

あの部屋の鍵は地下にある、と隣人は云った。「あれは捨てたはずだけど」「そうだな、なんでもかんでも躊躇なく捨てちまう脳足りんがな」「捨てたんだよ」「捨てられたもんを俺が拾っただけだ」、そんな訳でいま私の手元には古い部屋の鍵がある。持ち手の部分にうっすらと青錆が浮いている。それを舐めとるか溶かすかすればそれなりの終止符は打てるのだろうけど始まりの終わりも終わりの始まりも午前0時の頭にとっては意味のないことだ。

晝の焦燥

5日で2616頁。借りたぶんを返して予約した図書を受け取り2日で5冊。なにか変だと思いつつも頁を繰る指先を躾けられないのだからこれはもう仕方のないことと開き直り今日もせっせと活字をたべる。夜があっという間に過ぎていく。

クワズイモの葉先からぽたりぽたりと滴り落ちる水滴を視界の端に捉えながらゆるゆると閉じてゆく母親とそんな母の様子に怯える娘の物語を手繰りのみこむ。あとがきに狂気という言葉が使われておりハテ狂気とはと一瞬真剣に考えこむ。それがもし日々の暮らしのなかに白昼夢を敷くようなものだとするなら私にとっては特に珍しいことでもなくなんならつい昨日も人との会話の中でそのような気配を感じたところだ。正気と狂気の境とは果たしてどのような。

頭の芯をぐらぐらと揺さぶられるような本を読み終えてぐらぐらと揺れながら寝床に倒れこむ。なにを読んだのかよくわからないのに読んでいる間じゅうずっと声が聞こえていた、読むというより聞いているという感覚。ようこんなこわいもん書きはるな、と無声で母語を呟いたのは素直な伝染でもしかすると主人公の少年の声が実際に私の耳にも届いていたのかもしれない。悪声。その後アメリカの鱒釣りを数頁ほど読んだあたりで作者のブローティガンに思いきり蹴り飛ばされ呆然。そうかこの人は西瓜糖の。

土砂降りのなか亀たちの世話をしに走る。追い越しざま容赦なく水溜まりを割っていく車と速度をゆるめて通過する車の比率は前者のほうが高く雨合羽を被って出たのは正しい選択だったと思う。主不在の部屋の真ん中で亀たちは水槽の底に静かに横たわっており私の来訪を知覚するといくぶん億劫そうにゆっくりと浮上した。お兄ちゃん明後日には帰ってくるからもう少し待っていようね代わりに今日はえびの人*1がお水とごはんするよ。大きいほうの亀は伸ばした首を直角にし私を見上げる。ちゃんと帰ってくるから大丈夫だよお兄ちゃんは何より君たちのことを大事に思っているのだから。亀はふっと視線を外に逃し小さいほうの亀のもとへ泳いでいきその黒くて小さな甲羅にそっと手をのせる。私はその手がひんやりとやわらかであることを知っている。水換えと食餌の支度を終えて二匹を水槽に戻し(大きいほうはそれでもやはり不安だったのか私が動かないよう右脚の上で眼を閉じ眠ったふりをしていたけれどそれがあくまでふりであることは判っていたので心を無にして身体から剥がした)使ったカップを流しに置いて戸締りを点検してから再び雨合羽を身に纏い降りしきる雨のなか急ぎ図書館へと向かった。

"暗渠"という言葉が頭から離れない。

*1:私は二匹のうち大きいほうの亀に"おやつのえびをくれる人間"として認識されているため彼女に話しかける際は一人称がこうなる

遠因のアンスト

歩道に打ち捨てられた灰色の死骸と少女の髪を束ねる桃色のリボンと躑躅の植えこみに混生する紫色と獲物を咥え低空を滑る茶色の鳥。以上が先週の私が知覚した色で今週の私は雪柳のけぶるような白色と桜の幽かな肌の色などを半ば意識的に記憶していったが眠り姫をあやしに向かう道中にてまたしても鳩の無残な骸を目撃、今度は内臓も溢していたため私の脳は鳩の身体の灰色ではなく鮮烈な赤色のほうを認知した。この視点の推移はもしやと思い過去二日ほどの記憶を手繰ってみると果たして桜絡みの些細な出来事が浮上。買いだしの帰りにひとけのない遊歩道で一服していると背後から肩をとんとんと叩く者があり振り向くと八分咲きの枝が眼前に、ということがあった。あのとき私は振り向いてはいけなかったのだ。

家の近くの池に棲んでいた大鷭の姿が数日前からみられなくなった。先の鳩のこともありもしや池の底に沈んでいるのではとか他所の強い生きものにとられてしまったのではなどと不穏当なことばかり考えてしまうのでこれはよろしくないと思い渋々インターネットを使って彼の鳥の生態について調べることにした。ウェブサイトに記事を掲載する在野の研究家曰く大鷭という鳥は気候が暖かくなると生殖のために寒地へ移動するとのことでそうかあれは渡りのものだったのかと納得、縁があればまた今冬にはお目にかかれるかもしれないと思いまたそう思いこむことで春の腥さを不当に薄めようとする自らの浅薄な精神のはたらきに気づき私は実に愚かな人間だと嗤い嗤うしかない自分の弱さを心底悔しく思った。

橙色の網代笠

黒く湿った坂道を確かな足取りですっすっとのぼり行く御坊がひとり。数十メートル後方を自転車で走っていた私はその姿に目を奪われ思わず足を止めた。この辺りで御坊を見るのはそう珍しいことでもないので普段なら対向であれば目礼をしてすれ違い追い越す場合はそっと傍を通るのだがこの時は何故か御坊に近づいてはいけないと思った、たぶん近づけば御坊の纏う何かが乱れる というようなことを考えたのだろうけど私の考えることは大概根拠のない四方山なので実際のところはよく解らない。

昼食の鰈を仕込んでいる時にフと思い出したのはいつかみた夢で私を誑かそうとした化生の者のことで夢の世界で出会した存在とはいえあれもまた随分と浮世離れしたものだった。むかしはよく花に溺れたりあやしいものに遊ばれたり血液に浸ったりしたものだが最近はそんなこともなくなった、私についた獏がそうした成分をもくもくと貪っているのだろう。

「欲しいなら皿まで食らう覚悟でどうぞ」

四月の始まりは昔馴染みと花見をして過ごした。50万円で命をつないでいる人と1万円で心を保とうとしている人が座るベンチの横で老齢の男女が「この場所で一緒にコーヒーを飲むのは40年間で初めてのことやね」とうれしそうな声で話しているのを聞くともなく聞きながらそれぞれのひとのそれぞれの一生に思いを馳せた。欲しいものを手に入れるのも幸せなら誰かと一緒にコーヒーを飲むこともまたひとつの幸せで、それでは私の幸せとは何だろうと考えてみたくなったけれど考えようとしている時点で自欺の発生は免れないのでやっぱり止しておく。私は私に対して平気で嘘を吐く、のを私は知っている。

整地後の雑草

曇天が無遠慮に舐めた室内の平常は陽光のひと射しにより一瞬で回復し更には見慣れた机上の配置までもが思いがけず清められたのには驚いた。こんな些細なことで、と思い、つまり普段はこうした変化を些事と捉えているのかと自分にがっかりする。

いいかげん大人に、と幾度か耳にした忠告を不意に思い出しなんとなく寂しいような気になったけれど獣道のことは誰も知らないのでそもそも寂しがるような筋合いもないと思い直した。ただその声に混じっていた苛立ちやごく淡い否定の響きや嘲る調子については未だに納得のいかないところがある。なまじ関わりがあるから均したいと思うのか、もしそうなら自分の所属する世界に異物をまぜるのはいやだという意識が少なからずあるのだろうが事故のない箱庭を私は知らないのでどこまで真剣なのかわからない。きれいなものは汚くなるし汚いものは汚いけれどきれいにみえる瞬間もあるしきれいなものがきれいなままの時期だってある。何が言いたいかというとほとんど何も考えずにここまで書いたということでつまりこれは単なる腹ごなし。

燃やした星のにおい、遠い声、ひとりぶんの闇。

明日は雨の予報で旧友に会うのを延期にしたので一日じゅう家のことをして合間に本を読む予定。こういう予定がいちばん好き。