さんびかのこしらえ

太宰治の「正義と微笑」という物語を読む。私は彼の書いた例のあれを中学生の頃に読んで大層不愉快になり以来この作家の書くものは忌避してきたのだがそれでも何かを厭うという強い意志や姿勢を持たなかった当時の私は嫌うということを確定させるには先ず嫌うだけの理由を洗い出してみてからほんとうに嫌かどうか判断しようと思い彼の書いた本を二冊ほど古本屋さんで買った。その頃よく話をしていた人のうちのひとりはそのような私の行動を変だと言って散々笑い、他ふたりくらいはいかにも君がやりそうなことだとやはり笑い、もうひとりはそうする気持ちはわかると静かな声で言った。買った二冊ほどの本は未読の本をしまっておく白い蓋つき箱のなかに十年以上開かれることもなくただ横たわっていたけれどそれでも売り払うことはしなかった(私はおかねがなくなってくるとたいていの物は売った)。十年以上経って漸く開いてみる気になったのはなんとなく今なら読めるだろうと思ったからだ。
安定しない自尊心や幼い不遜に食傷するのは今も変わらないけれどそれが主人公の不安に由来するものであると気づけたのは太宰治の前にアンネ・フランクの日記を読んでいたからでこれは収穫だった。自分が十五、六歳の頃はどうだったろうと思い返してみるとそう在りたいと希う人間像がありその輪郭を補強するための反面教師がありそれらをこねてまとめたものを行動規範としたところなんかは彼らと同じだったように思う。継ぎ接ぎだらけの不細工な、それだけに切実な。

春が乱暴するので身体がうまくはたらかない。熱くなったかと思えばさっと冷える、多感なひとの情緒みたいだ。できればアルコールで意識を暈かしたまま次の朝に手をつけたいけれどそんなことをしていいのはきちんと自分の仕事をこなしているひとだけだと隣人が言うのでおとなしく消毒としてのアルコールをすこしばかり身体にいれて素面のまま寝床に入る。別の寝床では互いの願いをぶつけあったあとが染みとして残っていてそれもまた乱暴の一種だと思うけれどその上に横臥する人の寝顔はあくまで安らかだ。水の通りを挟んで向かいの部屋から漏れる嬌声、甦るいつかのミモザ。はるをひさいで、と制服姿の少女は暗い目をして笑った。わたしはかりそめをたべちらかしてはくだけ。まぼろしのような記憶をなぞるようにして眠りに落ちる。

自惚れた蜘蛛は

レコードはとうに止まっていたのに私だけがそれに気づかずにいた。

食べたものが胃で凝って堪らないのでキウイ味の炭酸飲料で中和する。泡立つ豆腐と挽肉を想像して、ぐ、と咽喉を締める。白い陶器に溜まる水は一瞬で濁ってしまうから私のような摂食障害経験者はいっとう気をつけなくてはならない。浮かんでは消える名前に対し抱く罪悪感はしかしそう長くはもたない気がする、たぶんわりと薄情だから。

子供の頃から親しんできた物語、まだ続くであろうそれらをしかし私はもう読まない。

隠れるのも説明も不得手なのでわかりやすいかたちで糸をぷつん。みんな随分親切にしてくれたのにそうした態度をとるのはあんまりだと自分でも思うけれど浅瀬で溺れるというのは致命的ではないぶん却って閉塞感を意識するようなものでそれが私には耐えられなかった、わりと薄情な上に堪え性もないから。

蜘蛛の糸に吊られたドーナツが振り子のように揺れている。穴から小さく聞こえる音声は左へ振れた時に「エビデンスが…」と言い右に振れた時には「…させてほしいですね」と言った。エビデンスという言葉はかしこいひとに愛されている用語だなと思い、舌の根に指を這わせてまだ馴染みのあるほうの響きを吐きだし手のひらにのせる。唾液に濡れた響きは空気に触れた途端びくびくと痙攣しやがて動かなくなった。可愛げのない意味のつまらない死骸。関心を失ったそれをドーナツの穴に投げ入れようとした際に粘度のあるつゆが指先から散った。ドーナツの穴がへんに湿らなければいいのだけれど。

一冊読み終えるとすかさず次の一冊を手に取り頁を繰る。自分の体温が移った物語の終わりとまだ触れたばかりでぬくみが感じられない物語の始まりがほんの束の間じわりと滲むあの一瞬、読む者としての私の境界までも曖昧になるあの一瞬。確固たるものなど、おそらく。

レコードはとうに止まっていたというのに。