橙色の網代笠

黒く湿った坂道を確かな足取りですっすっとのぼり行く御坊がひとり。数十メートル後方を自転車で走っていた私はその姿に目を奪われ思わず足を止めた。この辺りで御坊を見るのはそう珍しいことでもないので普段なら対向であれば目礼をしてすれ違い追い越す場合はそっと傍を通るのだがこの時は何故か御坊に近づいてはいけないと思った、たぶん近づけば御坊の纏う何かが乱れる というようなことを考えたのだろうけど私の考えることは大概根拠のない四方山なので実際のところはよく解らない。

昼食の鰈を仕込んでいる時にフと思い出したのはいつかみた夢で私を誑かそうとした化生の者のことで夢の世界で出会した存在とはいえあれもまた随分と浮世離れしたものだった。むかしはよく花に溺れたりあやしいものに遊ばれたり血液に浸ったりしたものだが最近はそんなこともなくなった、私についた獏がそうした成分をもくもくと貪っているのだろう。

「欲しいなら皿まで食らう覚悟でどうぞ」

四月の始まりは昔馴染みと花見をして過ごした。50万円で命をつないでいる人と1万円で心を保とうとしている人が座るベンチの横で老齢の男女が「この場所で一緒にコーヒーを飲むのは40年間で初めてのことやね」とうれしそうな声で話しているのを聞くともなく聞きながらそれぞれのひとのそれぞれの一生に思いを馳せた。欲しいものを手に入れるのも幸せなら誰かと一緒にコーヒーを飲むこともまたひとつの幸せで、それでは私の幸せとは何だろうと考えてみたくなったけれど考えようとしている時点で自欺の発生は免れないのでやっぱり止しておく。私は私に対して平気で嘘を吐く、のを私は知っている。